栃木県に眠る鹿児島県人の墓
 1つ前の記事で知事のことは紹介しましたが、今回は栃木県に眠る鹿児島県人の紹介です。
戊辰戦争のときに、宇都宮城で激戦があり、戦死者が出ております。また、西南戦争後の有罪判決を受けた国事犯で、栃木県で亡くなった方の墓もあります。


1.報恩寺:戊辰戦争戦死者14名 

伊地知助五郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年21歳。

井上猪右衛門 薩摩藩兵具第一隊半隊長。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年28歳。

岩城平右衛門 薩摩藩六番隊戦兵。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年23歳。

岩切彦次郎 薩摩藩小銃第六隊小。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年25歳。

上田友輔 薩摩藩小銃第五隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年26歳。

鵜木吉次郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年22歳。

加納治右衛門 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年18歳。

川北六左衛門 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年19歳。

草野直太郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年28歳。

佐藤彦五郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年23歳。

築地宗次郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年20歳。

内藤金次 薩摩藩兵具第一隊伍長。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年19歳。

永山覚太郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年28歳。

西田要之進 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)423日宇都宮城で戦死。享年24歳。

続いての記事は転載です。

2.光明寺:西南戦争国事犯獄中病死者5名

戊辰戦での薩摩藩の戦死者は報恩寺に葬られているが、市内にはもう1ケ所、「薩州志士之墓」というのがある。市内本町(とちぎ国際交流センター横)の光明寺。かつてのご住職によって建てられた、西南戦争関係者の墓碑である。

以下、「薩州志士之墓由来」という文書の一部意訳。『西郷隆盛が城山で自殺した後、同志の士は尽く降伏し、臨時裁判所にて刑せられ、各府県の監獄に分拘された。宇都宮監獄署には65名が服役したが、やがて期満ちて漸時出獄し、鹿児島に帰郷。彼等はその後、憲法発布の大典に遭遇し、大赦の恩典に浴した。

しかしながら、不幸にして獄中で病死した者11名あり、内6名は親族等が来て改葬されたが、残る5名は三十余年間一人として弔う者なく、墳土は荒草となり、墓標も朽ち果てようとしていた。栃木県典獄の佐藤氏その他はこれを憂い、碑を建て追悼法会を営もうとしていたが、そのうち多くの者が他県に転勤してしまい、実現せず。これを嘆いた時の医務所長・渡氏等は、各宗寺院の団体である栃木県仏教慈善会に謀ったが、裁決されなかった。

その時、独力で碑を建立せんと立ち上がったのが、光明寺住職の松岡道順禅師。道順禅師は、苦労しつつも自寺本堂西側に碑を建て、遂に市内各寺院を招いて追悼法会を催した。明治36年5月24日の事であった』

現在は、墓碑の横に鹿児島県人会による供養碑(昭和58年建立)があり、同会の名で塔婆もあげられている。「薩州志士之墓由来」によれば、5人の氏名は下記の通り。彼等は今なお迎えに来る縁者無く、この遠い異郷に眠ったままなのだろう。

鹿児島県鹿児島郡塩屋村平民   大山末吉

同県西来郡湊村士族      高崎彦助

同県揖宿郡●宿村西方士族    石嶺恕吉

同県同郡同村士族       永井源吉

同県同郡頴娃村士族      都外川新五郎

鹿児島から出張の際には、是非ともお立ち寄りください。



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# by fujisakitakeshi | 2018-10-19 22:37 | 薩摩の歴史のこと
栃木県と鹿児島県の歴史的接点

昨年、県議会文教警察委員会で栃木県に視察に行く機会がありました。明治の初期に「三島通庸」が県令をしていたのは知っていたので、その前後の県令・県知事を確認してみたら、驚くことがあかりました。なんと、明鹿児島出身者が5人連続続!!期間にして1882(明治15)10月~1904(明治37)1月=実に22年です。大山巌や西郷従道の那須の別邸があったのが、栃木県。なぜ薩摩閥で連続して知事を出す必要があったのか、人事の謎が気になります。下、WIKIPEDEIAより歴代知事の紹介です。

第3代 三島通庸

薩摩藩士・三島通純の長男として生まれる。三島家は藩の鼓指南役の家柄であったが、示現流剣術とともに伊地知正治から兵学を学んだ。精忠組の一員として寺田屋事件に関与し謹慎を命じられるが、のちに西郷隆盛に取り立てられ藩主島津忠義から人馬奉行に抜擢される。戊辰戦争においては鳥羽・伏見の戦いで小荷駄隊を率いるなど活躍した。その後は藩政改革に参加し、民事奉行や日向都城の地頭などをつとめた。この時の業績が認められ、大久保利通の計らいにより新政府に出仕する。

 

明治5年(1871年)、東京府参事。銀座煉瓦街建設の大任を果たしている。のち、教部大丞。明治7年(1874年)酒田県令(現在の鶴岡)。明治9年(1876年)から明治15年(1882年)まで初代山形県令。明治13年(1880年)に那須野ヶ原に肇耕社(ちょうこうしゃ)(三島農場)を開設。明治15年(1882年)1月から福島県令を兼任(同年7月より福島県令専任)。翌年10月より栃木県令。明治17年(1884年)に内務省土木局長(県令と兼任)。明治18年(1885年)に警視総監。明治20年(1887年)、維新の功により子爵を授けられた。

明治21年(1888年)夏、警視総監在任中に脳溢血[1]に倒れた。そして同年1023日、見舞いに訪れた多くの部下・友人たちに見取られこの世を去った。葬儀には12千名が参列し、青山墓地に埋葬された。入院から死の当日までの見舞い客、葬儀・1周忌の参列者まで一人ひとりの名前が記録されている。

第4代 樺山資雄

薩摩藩士・春山休兵衛の四男として鹿児島城下で生まれる。幼名は八十次。嘉永3年(1850年)元服し春山直在(なおあきら)と名乗る。文久2年(1862年)、樺山弥左衛門資始の娘・直子と結婚して、直子の祖父・樺山十郎太資容の養子となり、樺山平左衛門資雄と改名した。ちなみに妻・直子の母である阿幾は大久保利通の母・福の実妹。

明治5115日(1872223日)、新政府に出仕し都城県大属に就任。同年827日(929日)、陸軍省に転じ十等出仕となり、さらに陸軍会計軍吏補に就任。18761月、地租改正事務局九等出仕となる。18787月、茨城県一等属に任じられ、租税課長兼土木課長を務めた。18815月、内務一等属となり、以後、内務省御用掛、秋田県少書記官、栃木県少書記官、同県大書記官などを歴任。

18851月、栃木県令に就任。以後、栃木県知事、佐賀県知事を歴任。18922月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行い死傷者を出し、同年8月に非職となる。18953月、岐阜県知事として復帰し、さらに宮城県知事を務める。18986月、宮崎県知事に任じられたが、18998月、病のため休職。栃木県上都賀郡鶴田の別荘で療養したが、同年1116日に死去した。


第5代 折田平内

薩摩国鹿児島城下山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。187212 (旧暦)に開拓使八等出仕となる。18728 (旧暦)に開拓使大主典、187310月に七等出仕となり、187588日に開拓幹事。18771月に開拓権小書記官となり、翌187811月に権大書記官となる。

 

開拓使廃止後、1882年に内務大書記官となり、同年7月から18837月まで山形県令、その後福島県知事に任ぜられる。188810月に三島通庸の後の警視総監となる。三島と同じ薩摩人であったからとも、関係の深い黒田清隆が首相に就いたためともいわれる(黒田が退陣すると折田も警視総監を辞めた)。18891224日から1894120日まで栃木県知事、1896423日から189747日まで広島県知事、189747日から189947日まで滋賀県知事を歴任する。190058日、錦鶏間祗候に任じられた[2]

その他、1894123日に貴族院議員に勅撰され[3]、在任中の190557日に死去した。

第6代 佐藤暢

薩摩藩士・佐藤信行の二男として生まれる。1868年に上京し東京府取締組組頭となる。のち権大警部に就任。明治六年政変により退官し鹿児島県に帰郷したが、再び上京した。西南戦争では警視庁三等少警部として出征。さらに陸軍歩兵少尉兼権少警部に任官し、歩兵中尉兼少警部に昇進した。

その後、富山県射水郡長、函館県収税長、大阪府収税長、大阪府書記官、内閣書記官などを歴任。18941月、栃木県知事に就任した。18974月、同県知事を非職となり、翌月に退官した。その後、博多湾鉄道社長、川崎造船取締役などを歴任した。

第7代 菅井誠美

薩摩藩士・佐藤夢介の三男として生まれる[1]。明治3年(1870年)4月、菅井誠貫の養子となる[3]。その後、新政府に出仕し警視庁に勤務。18771月、同郷の警視庁警部、中原尚雄たちと帰郷し、西郷隆盛らの動向を探索中に私学校党に捕えられ、西南戦争勃発の遠因となった[1]

その後、熊本県書記官、宮城県警部長、神奈川県警部長などを歴任。18931月、三池集治監典獄に就任。看守の服務、囚徒の動作の内規化に尽力し、監獄運営の改善に取り組んだ。18991月、愛知県書記官に転任。さらに警視庁警視・総監官房主事を務めた[4]

190212月、栃木県知事に就任。同年2月の足尾台風による風水害からの復旧に尽力[5]1904(明治37)1月、愛媛県知事に転任。同年1117日に知事を休職。その後、私立獣医学校長を務めた[1]



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# by fujisakitakeshi | 2018-10-19 22:25 | 薩摩の歴史のこと
南日本新聞の論点への反論文(掲載されなかったもの)

 今年2月26日掲載の南日本新聞掲載の論点「問題の多い家庭教育支援法」の中で、鹿児島県家庭教育支援条例について「この条例は再検討をし、廃止すべきである」と述べられていますが,この条例の提案者の一人として、正しく理解していただきたく寄稿します。

この条例は、国の施策を受けてできたものではなく、われわれ議員が幼児教育に携わる方々と家庭教育の現状を研究し、更によりよくしたいと思う気持ちが高まったことから、家庭教育が困難になっている家庭への支援といった取り組みにより、各家庭が改めて家庭教育に対する責任を自覚し、その役割を認識するとともに、家庭を取り巻く学校等、地域、行政その他県民みなで家庭教育を支えていくことが必要と考え、子どもたちの健やかな成長に喜びを実感できる鹿児島県の実現を目指して、議員提案の政策条例として制定されました。

これは、家庭教育支援法が立法化されていない中、全国で2例目に条例化したものであり、当議会にも全国各地から視察いただいているところです。

全国的に見れば、虐待で乳幼児が死に至るケースなどの事件が起こってから「あの時こうすれば良かったのではないか」、「児童相談所や警察がもっと早く動けば」と指摘されることがあります。行政が家庭教育に介入するのは極めて限定的であり、抑制的に運用されているのが現状であることは、各種報道を通じてご承知のことと思います。(その一方で、運用が抑制的であるがゆえに、「これは救えた命でなかったのか」という指摘もあります。)

この条例は、公権力が家庭教育に介入することを想定しておらず、公権力に対してそのような権限を与えたような条文や、違反した場合の罰則などありません。また、われわれは提案者として、この条例の運用を常に監視しています。

条例が制定されて4年が過ぎ、県ではこれまで、家庭教育についての学習機会の充実、人材育成や広報・啓発活動など、様々な取り組みが行われています。新年度のスタートにあたり、今年で5年目を迎えるこの条例について、一層ご理解いただきたいと思います。


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# by fujisakitakeshi | 2018-10-19 22:09 | 県議会のこと
海音寺潮五郎の歴史を見る目

 鹿児島県立図書館の郷土コーナーは私の行きつけの場所ですが、先般鹿児島市立図書館に行ったときに、たまたまいい本に出会いました。「三州諸家史」という本です。この本には、海音寺潮五郎が序文を寄せてありました。この文章が書かれてから50年がたちますが、今でもうなづける内容です。

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 鹿児島県は歴史の国といわれているくせに史書の少ないところだ。たとえば明治維新の運動の中心動力が薩・長二藩であり、とくに薩摩の力が大きかったというのは、歴史家の常識であるが、薩摩藩関係からまとまった維新藩動史の書物は一部も出されていない。
長州藩関係からは膨大な「防長回天史」が出され、水戸藩関係から「水戸藩史料」が出され、
土佐藩関係からすら浩瀚な「土佐勤王史」が出されているのにくらべるとき、あきれるのである。今にきっと薩摩人は維新運動にはほんの端役をつとめたにすぎないというように考えられて来るに相違ない。すでにその傾向は見えるのである。

維新時代すらこんな状態であるから、その以前の時代の史書の乏しいことは言うまでもない。


「島津国史」「西藩野史」重野安繹博士と小牧昌業博士の講演速記を集めた「三州史談」「鹿児島懸史」以外には、ぼくは知らない。

鹿児島県が歴史に富むといっても、人はその富む歴史を知る途がないのである。鹿児島県人の学問や書物を軽蔑することはきわまれりの感がある。過去を知らないものが将来を洞察し得る道理がない。また人はおのれの歴史を知ることによって、おのれの血のうちにひそむ力を自覚することが出来るのだ。大正年代以来、鹿児島県が各方面に人物凋落、秋風落冥の感があるのは、一つにはこのために違いない。


このような鹿児島県にとって、この書が新しく出されることは、まことに貴重である。読者はこの書によって、古い時代の鹿児島の歴史を、要領よく知ることができるであろう。この前、ぼくは中学時代の同級生の一人と卒業以来はじめて会ったが、いろいろな話の末、鮫島というその同窓生のために鮫島姓のおこりを説くはめになり、それは駿河国の地名に起原し、頼朝によって鮫島宗家というここにいた武士が阿多の地頭に任命されて薩摩に移住したのが薩摩の鮫島氏の先祖で、今も静岡県富士郡の田子の浦近くに鮫島という名の土地があるはずだと説いた。



友人ははじめて知ったとよろこんでいたが、この書にはこのような鹿児島県に多い諸氏のおこりも出ている。自家のおこりをしることの出来る読者も多いことであろう。


昭和四十年一月十三日 海音寺

潮五郎


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# by fujisakitakeshi | 2018-10-10 23:38 | 薩摩の歴史のこと
鶴丸城御楼門の復元へ
 鶴丸城の御楼門復元にむけた動きが本格化しています。先日は起工式が行われました。実は私は小学4年生のときの文集に、「城博士になって鶴丸城を復元したい」と書いたほどの筋金入りです。
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 県議会議員として、その局面ごとに復元にむけたお手伝いをしてきました。

平成25年度 経済同友会の皆様による募金が始まったころ、鹿児島県議会に経済同友会の玉川代表幹事をお招きし、募金にむけた講演をしていただき、民間側の意気込みを多くの先輩・同僚議員に聞いていただきました。

平成26年度 県議会総務委員長就任。総務委員会の視察に、鶴丸城御楼門跡石垣修復事業の現場に選び、石垣修復をしないと加重に耐えられないことなどを先輩・同僚議員にご理解いただきました。
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平成28年度 御楼門に使う建築資材を姉妹県である岐阜から提供を受けることになり、訪問団に対して、薩摩義士顕彰会の理事として、岐阜と鹿児島の交流の歴史について研修をおこないました。

平成29年度 御楼門の建築の入札にあたり、「鹿児島県内の技術者の技術の継承」を理由に、地元の優先発注される仕組みづくりに奔走しました。

 さあ、これから安全第一での完成を望みます。
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# by fujisakitakeshi | 2018-10-10 23:19 | 薩摩の歴史のこと
帝国議会選挙立候補のため、新納菊次郎になった西郷菊次郎
 先月の地元新聞に、「西郷菊次郎がうちに一時期養子に入っている古い戸籍がある」という鹿児島市の新納時英さんの記事が載りました。この件について、私は「昨年読んだ本にあった」とすぐに思い出しました。
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  大正7年、日本警察新聞社発行の「鹿児島県政党史」!!100年前の本ですが、実はこれは開架本。すなわち本棚に常時並び、貸し出しもできる本なのです。議員という職務にあり、「鹿児島から総理を出す」という目標を掲げている私は、昨年すかさずこの本を借りたのです。

 そこには、帝国議会ができてから、選挙制度が決まり、一定納税額納めた男子しか投票権がない衆議院選挙の鹿児島県内での戦いの記録がありました。

 政府寄りの「吏党」と、反対勢力の「民党」―この二大政党の激しい戦いに菊次郎が参加していたのです。武力による政府批判は西南戦争で終結し、言論と選挙による政治が機能し始めていました。

 「西郷菊次郎と台湾」「西郷従道伝」「鹿児島県政党史」の3冊の関係個所を照らし合わせて、以下の年表を作成してみました。

明治23年11月第一回帝国議会招集。
(山縣有朋総理大臣。鹿児島からは、西郷従道内務大臣、松方正義大蔵大臣、大山巌陸軍大臣、樺山資紀海軍大臣が入閣。)   

明治24年 5月 松方正義内閣成立。

明治24年 8月 外務省翻訳官着任。

明治24年12月 外務省退職。年末には武村に住む。
(当時の武屋敷には菊次郎、いと、園、松、幸吉、熊吉が住んでいた)

【藤崎の推察;菊次郎は、民党の代議士が議席を独占する鹿児島に入り、「1人でも多くの吏党の代議士を出すよう」西郷従道ら政府首脳から頼まれて帰鹿した可能性大。武村の自宅の再建などに、従道に援助してもらった以上は、断れなかったのでは?】


<1892年>

明治25年      総選挙の詔勅が出され、松方内閣は、吏党の当選者を増やすため、「民党への選挙干渉」を推進し、警察組織を使って暴力での選挙干渉を全国的に実施した。

明治25年2月11日 総選挙投票日、鹿児島県内6選挙区で衆議院議員決まる。
 これに先立ち、西郷菊次郎は吏党側で鹿児島県第六区の高山村(現在の肝付町)に入り、その地の有力者である宇都宮藤太を説得した。「南洲翁の遺児」という立場での説得はてきめん効果があり、高山村の票を全部「吏党」でまとめた。その結果、第六区では、吏党の篠田政龍が当選した。このとき、第五区は民党の河島醇が当選した。

明治25年夏    西郷従道が国民協会という政党を設立、会頭就任。
副会頭に品川弥次郎就任、品川副会頭らが大挙して鹿児島遊説。このとき菊次郎は、従道の意を受けて政治活動を手伝った。

明治25年 8月  松方内閣倒れ、第二次伊藤博文内閣成立。

明治25年     樺山資紀前外務大臣が鹿児島入り、吏党側を擁護する演説会を各地で開催。

明治25年11月  鹿児島県知事に大迫貞清就任。(西南戦争後、初の鹿児島出身知事)

       

【藤崎の推察;大迫は父・西郷隆盛の盟友。版籍奉還のときに、隆盛とともに執政に選ばれた5人のうちの1人。大迫は選挙干渉に否定的な知事だった。民党・吏党両陣営ともに旧知の仲間が多かったためと思われる】

<1893年>
明治26年 1月 菊次郎、永吉久子と結婚。

明治26年 5月 第六区選出の篠田代議士が急逝、補欠選挙が実施される。

 西郷菊次郎、第六区内を東西に奔走し、吏党の佐藤通代候補を支援。52票差で、民党の蒲生仙候補に敗れる。


明治26年12月 長男・隆吉生まれる。


【藤崎の推察;この頃大口を中心とする第5選挙区の吏党支援者から、6区での菊次郎の活躍で吏党の議席を奪還した実績を買われ、菊次郎自身を候補者に立てて民党から議席を奪還する計画が生まれる。これに菊次郎本人は始めから乗り気だったのか定かではない】

<1894年>

明治27年 2月16日 新納家に養子縁組

 伊佐郡大口村の新納家との養子縁組をし、第五区か菊次郎本人が吏党で立候補の準備をした。当時の第五区は、菱刈郡・姶良郡・桑原郡・西曾於郡・北伊佐郡で構成。
         

明治27年3月 1日 臨時総選挙投票日。
 西郷菊次郎は、「新納菊次郎」の名で第五区で吏党から新人で立候補したが、民党現職の河島醇に敗れた。菊次郎が応援した第六区では、再び吏党が敗れ、民党が議席を奪還する。

【藤崎の推察:西郷従道の国民協会からの脱退と自身の落選に伴い、政治活動から足を洗うことを決意?政府役人としての道を模索する?】

明治28年4月    日清戦争終結、講和条約により台湾と澎湖諸島が日本領になる。

明治28年4月    陸軍大本営付き着任
     5月    台湾総督府参事官心得着任

明治28年6月20日 新納家と離縁。西郷家復籍。

明治30年5月    宜蘭庁長に任ぜられる。

 西郷菊次郎が外務省を辞めてから、台湾に赴任するまでの空白の期間は「政治活動」に邁進していたのです。西郷隆文さんもびっくり、新納時英さんもびっくり。

 鹿児島県立図書館の原口泉館長は、「まさか、答えが足元の県立図書館にあるとは・・・しかも開架・・・鹿児島県政党史・・・よくチェックしましたね~藤崎さん」

 これが、事の顛末でありました。

 なぜ新納を名乗ったのか、菊次郎担ぎ出しには、大口の戸長のメンバーが関わっています。ちょうど、女性戸主で年齢的にもつりあってちょうどよかったからでしょうか。菊次郎が離籍後の、新納家に入った養子の貞熊も戸長仲間の息子です。大口の戸長方が語り合って進めたのではないでしょうか。









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# by fujisakitakeshi | 2018-10-09 20:15 | 薩摩の歴史のこと
高得点目標の国体と現実の硬直化した県教委?
 国民体育大会にむけて天皇杯皇后杯ともに優勝という掛け声があるが、どうも掛け声倒れの懸念が強いです。

 そもそも、少子化で児童生徒が少ないなかで、わが子にスポーツ少年団をさせる保護者の存在というのは、とてもありがたい存在だと思います。また、スポーツを通じて子供たちの心身の成長を見るのが、自分自身の生きがいという指導者の存在がありがたい。仕事がある中で、地域の子供の面倒を見てくださっています。またスポーツに目をきらきらさせて汗を流す子供たち姿は、尊いものに感じます。

 そんななかで、昨年から相次いで相談を受けているのは、小学生のときスポーツ少年団で頑張ってきたのに、「進学先の中学に該当する部活動がない」というものです。

 ある学校でのことです。年明け早々に、6年生保護者が進学先の中学での新年度の4月の部活開設の相談に行きましたが、結局実現できませんでした。

保護者「4月に有望な選手が、貴中学に進学します。部活動を開設してもらえませんか」
校長「3月で私は退職だから、4月からのことは私では判断できない」

保護者「4月に有望な男子選手が、貴中学に進学します。女子とあわせて男子の部活動も面倒みてもらえませんか」
同じ種目の女子を指導する先生「私からは校長にそれはいえない」(学校内の上司と部下の風通しが悪い?)
保護者「えっ、なぜですか」

保護者「ええい、埒があかない。越境でほかの学校に行かせようか」
生徒「部活はやりたいけど、仲のいい子供たちと同じ学校がいい」

 部活動でなくても、同好会で始めて、その後部活に昇格できる道もありましたが、それも実現できませんでした。

 このようにして、有望選手がいても、志がついえていきます。志があれば、「さっ」と仕組みをつくり、エスカレーター方式で、指導していく仕組みがかなり遅れています。部活動・スポーツの裾野をいかに広げて、育成し、発掘し、育てていくかの視点が、県教委のわけのわからん理屈のなかで、遅れています。

 次回県議選のなかでの大きな訴えの1つになるかもしれません。

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# by fujisakitakeshi | 2018-07-26 22:42 | 県議会のこと
一過性でない歴史観光とは
 維新150年ということで、様々なイベントが大河ドラマをあわせて、進んでいます。それはそれで評価しているのですが、では「来年は151年事業があるのですかね?」と誰もが「それはどうでしょうか・・」と言葉数は少なくなってしまいます。

 私は、先般の議会で、息子の年号覚えの語呂合わせで「鹿児島人にとって大事な年号は、1868年と1877年だ」と指摘しました。戊辰戦争終結・明治維新と西南戦争終結の年です。次回、鹿児島が歴史的に注目され、歴史を活かした観光を計画するのは、9年後の「西南戦争終結150年」になろうかと思います。2027年です。

 一過性でないようにするには、歴史的研究基盤を観光に結びけなくてはなりません。そのためには、「この人物が、いつ・何をした」という歴史上の表面上をなぞるだけの観光から、その人物を深掘りが必要です。

 大きな業績を残した歴史上の人物は、聖人君子のように言われ、なかには崇め奉られて批判は許されない人物もいます。でも、大きな事業を成し遂げた方も、人の子として生まれ、成長し、縁あってその仕事をしました。そのときの住まいは?職場との距離は?家族は?友人関係は?職場の上司部下の人間関係は?などと人物像を深掘りして、研究していく基盤を鹿児島に整えることは定期的な人的交流を進める1つの起爆剤になろうかと思います。

 鹿児島は、西南戦争で受けた大切な人を失った官軍(政府)への恨み、経済基盤の崩壊などのショックが大きく、それ以前の薩英戦争・戊辰戦争での鹿児島の活躍などが多く知られておらず、また明治時代の県庁行政機構などがまだまだ研究途上です。

 歴史番組をつくるなら、鹿児島に聞け!鹿児島に行け!と言われるような拠点づくりによる研究者誘致はそんなに難しくないような気がします。

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# by fujisakitakeshi | 2018-07-22 19:59 | 薩摩の歴史のこと
SNS重点の発信からもう一度、ブログ活用も
 私の政治活動は情報通信分野の技術進展とともに、進化して来ています。この6~7年はFACEBOOKという匿名ではなく、実名制の高いツールをしかもスマートフォンという道具を使って、私なりの思いや、政策実現プロセスなどを発信してそれなりの効果を上げてきました。

 しかし、SNSを利用しない皆様もいることも事実であり、また匿名で私の政治活動をウオッチしたいという方への情報発信がおろそかにいました。これは反省すべき点だと思います。この間、無理だと思われていた私の親などもインターネットを使うようになり、使う層が大幅に増えています。しかし、SNSまでは足踏みしています。

 「鹿児島県をよくしたい」「自分ならこうできる」と政治活動に足を踏み入れたのは、平成10年10月16日です。KTS鹿児島テレビを退職した翌日からです。当時24歳11か月。その時の自分は、細かな政策論よりも、とにかく「若さと新鮮さ」を鮮烈に訴えたイメージ戦術に徹していたのではないかと思います。具体性にはとぼしいけれど、大きな夢を抱いていたというのが実情ではなかったかと思います。

 それから20年。浪人生活8年、現職議員として12年。政治活動のステージを無所属から自民党へと移し、別れもありましたが、多くの出会いもありました。その間に結婚して、13年。独身での政治活動から、家族4人での政治活動に質的にも変貌しました。

 政策の実現プロセスもわからないまま、「藤崎君ならこうしてくれるかもしれない」という期待感で支援してきてくださった皆様には、感謝でいっぱいです。しかし、現職議員として12年。鹿児島県政での実現への方法は熟知しています。

 議員の仕事には、「選挙で訴えたことの実現」「選挙後にご相談受けたことの実現」「選挙で訴えたこと以外で藤崎の感性でこれは次の時代に必要だと思うことの実現」の3つがあろうかと思います。

 このところ、地域の皆様からの相談案件が大幅に増えています。地域の相談案件ばかりやっていると、例えば「鹿児島県の成長戦略」などの大きな視点を見失いがちになります。

 自分の時間には限りがあり、事務所スタッフの皆様の力を借りつつ、政策実現に精励したいと思い、ブログ再開の決意としたいところです。



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# by fujisakitakeshi | 2018-07-22 17:56 | 県議会のこと
薩摩剣士隼人の活用による鹿児島の効果的PR
「県庁管理職の皆様は、始め薩摩剣士隼人のことをほとんど知らなかった」―薩摩剣士隼人と県庁各課とのコラボが進んでいます。役所と民間が共同で最大の効果を狙う官民協働(PPP)が訪れていて、薩摩剣士隼人は、鹿児島の効果的PRでまさに、その役割を担いつつあります。その推進の背景には、私の質問に対する議会答弁があります。
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(藤崎)
 最近、世の中に負のスパイラルが非常に蔓延する中で、これは勢いがあるぞと感じるのが鹿児島中央駅周辺の活気ぶり、そして大手コンビニの出店ラッシュ、そして御当地ヒーロー薩摩剣士隼人の人気ぶりであります。
 薩摩剣士隼人に寄せる知事のさらなる期待と農畜産物の振興、そして教育的効果についての利活用などについて、わっぜわくわくするような答弁をお願いいたします。
(伊藤知事)
近年、ゆるキャラを活用いたしまして、地域の観光や特産品をPRする取り組みがふえており、本県では、さくらじまんやぐりぶーなどを活用してきました。
 薩摩剣士隼人は、敬天愛人の精神を持ち、人々を元気にするキャラクターとして人気が高まるとともにその活動を鹿児島のPRや地域の活性化に活用することを図りたいと考えておりますが、一局でなく、多くの局で地域振興に資するための多様な取り組みがなされることを今後期待しています。
(農政部長)
テレビ番組の薩摩剣士隼人では、かごしま黒豚やかごしま茶、タンカンなどをモチーフとしたキャラクターが登場し、子供たちが楽しみながら県産農産物に対しまして関心や興味を持つよい機会となっていると考えております。
 このため、県におきましては、かごしま食のフェスティバルにおきまして、薩摩剣士隼人ショーを開催し、複数のキャラクターに鹿児島の食の魅力を発信してもらうことにしています。
 キャラクターを農産物のPR等に活用することは、鹿児島の食に対する子供たちの理解促進や消費拡大などへの貢献も期待できることから、今後とも効果的な活用法を検討してまいりたい。
(教育長)
豪快でおおらかな、強く優しい薩摩隼人をモチーフとした薩摩剣士隼人は、子供たちに広く親しまれているキャラクターであると考えています。テレビ番組においては、伝統芸能や郷土史、偉人たちの思想や暮らしの知恵など、わかりやすく紹介していただいております。薩摩剣士隼人を初めとした郷土を素材にしたキャラクターを活用することについては、郷土教育や文化活動などを推進する上では、子供たちの関心を高め、理解を深めることにつながると考えております。
 私が質問通告をしたら、管理職の皆様は「薩摩剣士隼人」の答弁をつくるために一生懸命勉強して(笑)答弁を作ってくださいました。これにより、県庁内での隼人の知名度は一気に上がり、官民協働が進みました。写真は東京での鹿児島の夕べの様子です。
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# by fujisakitakeshi | 2015-03-31 09:04 | 県議会のこと