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帝国議会選挙立候補のため、新納菊次郎になった西郷菊次郎

 先月の地元新聞に、「西郷菊次郎がうちに一時期養子に入っている古い戸籍がある」という鹿児島市の新納時英さんの記事が載りました。この件について、私は「昨年読んだ本にあった」とすぐに思い出しました。
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  大正7年、日本警察新聞社発行の「鹿児島県政党史」!!100年前の本ですが、実はこれは開架本。すなわち本棚に常時並び、貸し出しもできる本なのです。議員という職務にあり、「鹿児島から総理を出す」という目標を掲げている私は、昨年すかさずこの本を借りたのです。

 そこには、帝国議会ができてから、選挙制度が決まり、一定納税額納めた男子しか投票権がない衆議院選挙の鹿児島県内での戦いの記録がありました。

 政府寄りの「吏党」と、反対勢力の「民党」―この二大政党の激しい戦いに菊次郎が参加していたのです。武力による政府批判は西南戦争で終結し、言論と選挙による政治が機能し始めていました。

 「西郷菊次郎と台湾」「西郷従道伝」「鹿児島県政党史」の3冊の関係個所を照らし合わせて、以下の年表を作成してみました。

明治23年11月第一回帝国議会招集。
(山縣有朋総理大臣。鹿児島からは、西郷従道内務大臣、松方正義大蔵大臣、大山巌陸軍大臣、樺山資紀海軍大臣が入閣。)   

明治24年 5月 松方正義内閣成立。

明治24年 8月 外務省翻訳官着任。

明治24年12月 外務省退職。年末には武村に住む。
(当時の武屋敷には菊次郎、いと、園、松、幸吉、熊吉が住んでいた)

【藤崎の推察;菊次郎は、民党の代議士が議席を独占する鹿児島に入り、「1人でも多くの吏党の代議士を出すよう」西郷従道ら政府首脳から頼まれて帰鹿した可能性大。武村の自宅の再建などに、従道に援助してもらった以上は、断れなかったのでは?】


<1892年>

明治25年      総選挙の詔勅が出され、松方内閣は、吏党の当選者を増やすため、「民党への選挙干渉」を推進し、警察組織を使って暴力での選挙干渉を全国的に実施した。

明治25年2月11日 総選挙投票日、鹿児島県内6選挙区で衆議院議員決まる。
 これに先立ち、西郷菊次郎は吏党側で鹿児島県第六区の高山村(現在の肝付町)に入り、その地の有力者である宇都宮藤太を説得した。「南洲翁の遺児」という立場での説得はてきめん効果があり、高山村の票を全部「吏党」でまとめた。その結果、第六区では、吏党の篠田政龍が当選した。このとき、第五区は民党の河島醇が当選した。

明治25年夏    西郷従道が国民協会という政党を設立、会頭就任。
副会頭に品川弥次郎就任、品川副会頭らが大挙して鹿児島遊説。このとき菊次郎は、従道の意を受けて政治活動を手伝った。

明治25年 8月  松方内閣倒れ、第二次伊藤博文内閣成立。

明治25年     樺山資紀前外務大臣が鹿児島入り、吏党側を擁護する演説会を各地で開催。

明治25年11月  鹿児島県知事に大迫貞清就任。(西南戦争後、初の鹿児島出身知事)

       

【藤崎の推察;大迫は父・西郷隆盛の盟友。版籍奉還のときに、隆盛とともに執政に選ばれた5人のうちの1人。大迫は選挙干渉に否定的な知事だった。民党・吏党両陣営ともに旧知の仲間が多かったためと思われる】

<1893年>
明治26年 1月 菊次郎、永吉久子と結婚。

明治26年 5月 第六区選出の篠田代議士が急逝、補欠選挙が実施される。

 西郷菊次郎、第六区内を東西に奔走し、吏党の佐藤通代候補を支援。52票差で、民党の蒲生仙候補に敗れる。


明治26年12月 長男・隆吉生まれる。


【藤崎の推察;この頃大口を中心とする第5選挙区の吏党支援者から、6区での菊次郎の活躍で吏党の議席を奪還した実績を買われ、菊次郎自身を候補者に立てて民党から議席を奪還する計画が生まれる。これに菊次郎本人は始めから乗り気だったのか定かではない】

<1894年>

明治27年 2月16日 新納家に養子縁組

 伊佐郡大口村の新納家との養子縁組をし、第五区か菊次郎本人が吏党で立候補の準備をした。当時の第五区は、菱刈郡・姶良郡・桑原郡・西曾於郡・北伊佐郡で構成。
         

明治27年3月 1日 臨時総選挙投票日。
 西郷菊次郎は、「新納菊次郎」の名で第五区で吏党から新人で立候補したが、民党現職の河島醇に敗れた。菊次郎が応援した第六区では、再び吏党が敗れ、民党が議席を奪還する。

【藤崎の推察:西郷従道の国民協会からの脱退と自身の落選に伴い、政治活動から足を洗うことを決意?政府役人としての道を模索する?】

明治28年4月    日清戦争終結、講和条約により台湾と澎湖諸島が日本領になる。

明治28年4月    陸軍大本営付き着任
     5月    台湾総督府参事官心得着任

明治28年6月20日 新納家と離縁。西郷家復籍。

明治30年5月    宜蘭庁長に任ぜられる。

 西郷菊次郎が外務省を辞めてから、台湾に赴任するまでの空白の期間は「政治活動」に邁進していたのです。西郷隆文さんもびっくり、新納時英さんもびっくり。

 鹿児島県立図書館の原口泉館長は、「まさか、答えが足元の県立図書館にあるとは・・・しかも開架・・・鹿児島県政党史・・・よくチェックしましたね~藤崎さん」

 これが、事の顛末でありました。

 なぜ新納を名乗ったのか、菊次郎担ぎ出しには、大口の戸長のメンバーが関わっています。ちょうど、女性戸主で年齢的にもつりあってちょうどよかったからでしょうか。菊次郎が離籍後の、新納家に入った養子の貞熊も戸長仲間の息子です。大口の戸長方が語り合って進めたのではないでしょうか。









by fujisakitakeshi | 2018-10-09 20:15 | 薩摩の歴史のこと