栃木県と鹿児島県の歴史的接点
2018年 10月 19日
昨年、県議会文教警察委員会で栃木県に視察に行く機会がありました。明治の初期に「三島通庸」が県令をしていたのは知っていたので、その前後の県令・県知事を確認してみたら、驚くことがあかりました。なんと、明鹿児島出身者が5人連続続!!期間にして1882(明治15)年10月~1904(明治37)年1月=実に22年です。大山巌や西郷従道の那須の別邸があったのが、栃木県。なぜ薩摩閥で連続して知事を出す必要があったのか、人事の謎が気になります。下、WIKIPEDEIAより歴代知事の紹介です。
第3代 三島通庸
薩摩藩士・三島通純の長男として生まれる。三島家は藩の鼓指南役の家柄であったが、示現流剣術とともに伊地知正治から兵学を学んだ。精忠組の一員として寺田屋事件に関与し謹慎を命じられるが、のちに西郷隆盛に取り立てられ藩主島津忠義から人馬奉行に抜擢される。戊辰戦争においては鳥羽・伏見の戦いで小荷駄隊を率いるなど活躍した。その後は藩政改革に参加し、民事奉行や日向都城の地頭などをつとめた。この時の業績が認められ、大久保利通の計らいにより新政府に出仕する。
明治5年(1871年)、東京府参事。銀座煉瓦街建設の大任を果たしている。のち、教部大丞。明治7年(1874年)酒田県令(現在の鶴岡)。明治9年(1876年)から明治15年(1882年)まで初代山形県令。明治13年(1880年)に那須野ヶ原に肇耕社(ちょうこうしゃ)(三島農場)を開設。明治15年(1882年)1月から福島県令を兼任(同年7月より福島県令専任)。翌年10月より栃木県令。明治17年(1884年)に内務省土木局長(県令と兼任)。明治18年(1885年)に警視総監。明治20年(1887年)、維新の功により子爵を授けられた。
明治21年(1888年)夏、警視総監在任中に脳溢血[1]に倒れた。そして同年10月23日、見舞いに訪れた多くの部下・友人たちに見取られこの世を去った。葬儀には1万2千名が参列し、青山墓地に埋葬された。入院から死の当日までの見舞い客、葬儀・1周忌の参列者まで一人ひとりの名前が記録されている。
第4代 樺山資雄
薩摩藩士・春山休兵衛の四男として鹿児島城下で生まれる。幼名は八十次。嘉永3年(1850年)元服し春山直在(なおあきら)と名乗る。文久2年(1862年)、樺山弥左衛門資始の娘・直子と結婚して、直子の祖父・樺山十郎太資容の養子となり、樺山平左衛門資雄と改名した。ちなみに妻・直子の母である阿幾は大久保利通の母・福の実妹。
明治5年1月15日(1872年2月23日)、新政府に出仕し都城県大属に就任。同年8月27日(9月29日)、陸軍省に転じ十等出仕となり、さらに陸軍会計軍吏補に就任。1876年1月、地租改正事務局九等出仕となる。1878年7月、茨城県一等属に任じられ、租税課長兼土木課長を務めた。1881年5月、内務一等属となり、以後、内務省御用掛、秋田県少書記官、栃木県少書記官、同県大書記官などを歴任。
1885年1月、栃木県令に就任。以後、栃木県知事、佐賀県知事を歴任。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行い死傷者を出し、同年8月に非職となる。1895年3月、岐阜県知事として復帰し、さらに宮城県知事を務める。1898年6月、宮崎県知事に任じられたが、1899年8月、病のため休職。栃木県上都賀郡鶴田の別荘で療養したが、同年11月16日に死去した。
第5代 折田平内
薩摩国鹿児島城下山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。1872年12月 (旧暦)に開拓使八等出仕となる。1872年8月 (旧暦)に開拓使大主典、1873年10月に七等出仕となり、1875年8月8日に開拓幹事。1877年1月に開拓権小書記官となり、翌1878年11月に権大書記官となる。
開拓使廃止後、1882年に内務大書記官となり、同年7月から1883年7月まで山形県令、その後福島県知事に任ぜられる。1888年10月に三島通庸の後の警視総監となる。三島と同じ薩摩人であったからとも、関係の深い黒田清隆が首相に就いたためともいわれる(黒田が退陣すると折田も警視総監を辞めた)。1889年12月24日から1894年1月20日まで栃木県知事、1896年4月23日から1897年4月7日まで広島県知事、1897年4月7日から1899年4月7日まで滋賀県知事を歴任する。1900年5月8日、錦鶏間祗候に任じられた[2]。
その他、1894年1月23日に貴族院議員に勅撰され[3]、在任中の1905年5月7日に死去した。
第6代 佐藤暢
薩摩藩士・佐藤信行の二男として生まれる。1868年に上京し東京府取締組組頭となる。のち権大警部に就任。明治六年政変により退官し鹿児島県に帰郷したが、再び上京した。西南戦争では警視庁三等少警部として出征。さらに陸軍歩兵少尉兼権少警部に任官し、歩兵中尉兼少警部に昇進した。
その後、富山県射水郡長、函館県収税長、大阪府収税長、大阪府書記官、内閣書記官などを歴任。1894年1月、栃木県知事に就任した。1897年4月、同県知事を非職となり、翌月に退官した。その後、博多湾鉄道社長、川崎造船取締役などを歴任した。
第7代 菅井誠美
薩摩藩士・佐藤夢介の三男として生まれる[1]。明治3年(1870年)4月、菅井誠貫の養子となる[3]。その後、新政府に出仕し警視庁に勤務。1877年1月、同郷の警視庁警部、中原尚雄たちと帰郷し、西郷隆盛らの動向を探索中に私学校党に捕えられ、西南戦争勃発の遠因となった[1]。
その後、熊本県書記官、宮城県警部長、神奈川県警部長などを歴任。1893年1月、三池集治監典獄に就任。看守の服務、囚徒の動作の内規化に尽力し、監獄運営の改善に取り組んだ。1899年1月、愛知県書記官に転任。さらに警視庁警視・総監官房主事を務めた[4]。
1902年12月、栃木県知事に就任。同年2月の足尾台風による風水害からの復旧に尽力[5]。1904(明治37)年1月、愛媛県知事に転任。同年11月17日に知事を休職。その後、私立獣医学校長を務めた[1]。