栃木県に眠る鹿児島県人の墓
2018年 10月 19日
戊辰戦争のときに、宇都宮城で激戦があり、戦死者が出ております。また、西南戦争後の有罪判決を受けた国事犯で、栃木県で亡くなった方の墓もあります。
1.報恩寺:戊辰戦争戦死者14名
伊地知助五郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年21歳。
井上猪右衛門 薩摩藩兵具第一隊半隊長。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年28歳。
岩城平右衛門 薩摩藩六番隊戦兵。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年23歳。
岩切彦次郎 薩摩藩小銃第六隊小。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年25歳。
上田友輔 薩摩藩小銃第五隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年26歳。
鵜木吉次郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年22歳。
加納治右衛門 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年18歳。
川北六左衛門 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年19歳。
草野直太郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年28歳。
佐藤彦五郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年23歳。
築地宗次郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年20歳。
内藤金次 薩摩藩兵具第一隊伍長。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年19歳。
永山覚太郎 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年28歳。
西田要之進 薩摩藩小銃第六隊。慶応四(1868)年4月23日宇都宮城で戦死。享年24歳。
続いての記事は転載です。
2.光明寺:西南戦争国事犯獄中病死者5名
戊辰戦での薩摩藩の戦死者は報恩寺に葬られているが、市内にはもう1ケ所、「薩州志士之墓」というのがある。市内本町(とちぎ国際交流センター横)の光明寺。かつてのご住職によって建てられた、西南戦争関係者の墓碑である。
以下、「薩州志士之墓由来」という文書の一部意訳。『西郷隆盛が城山で自殺した後、同志の士は尽く降伏し、臨時裁判所にて刑せられ、各府県の監獄に分拘された。宇都宮監獄署には65名が服役したが、やがて期満ちて漸時出獄し、鹿児島に帰郷。彼等はその後、憲法発布の大典に遭遇し、大赦の恩典に浴した。
しかしながら、不幸にして獄中で病死した者11名あり、内6名は親族等が来て改葬されたが、残る5名は三十余年間一人として弔う者なく、墳土は荒草となり、墓標も朽ち果てようとしていた。栃木県典獄の佐藤氏その他はこれを憂い、碑を建て追悼法会を営もうとしていたが、そのうち多くの者が他県に転勤してしまい、実現せず。これを嘆いた時の医務所長・渡氏等は、各宗寺院の団体である栃木県仏教慈善会に謀ったが、裁決されなかった。
その時、独力で碑を建立せんと立ち上がったのが、光明寺住職の松岡道順禅師。道順禅師は、苦労しつつも自寺本堂西側に碑を建て、遂に市内各寺院を招いて追悼法会を催した。明治36年5月24日の事であった』
現在は、墓碑の横に鹿児島県人会による供養碑(昭和58年建立)があり、同会の名で塔婆もあげられている。「薩州志士之墓由来」によれば、5人の氏名は下記の通り。彼等は今なお迎えに来る縁者無く、この遠い異郷に眠ったままなのだろう。
鹿児島県鹿児島郡塩屋村平民 大山末吉
同県西来郡湊村士族 高崎彦助
同県揖宿郡●宿村西方士族 石嶺恕吉
同県同郡同村士族 永井源吉
同県同郡頴娃村士族 都外川新五郎
鹿児島から出張の際には、是非ともお立ち寄りください。