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鹿児島県知事・大迫貞清

 明治2年の藩政改革。戊辰戦争が終わり、「御一新」の名前で明治時代がスタートしました。鹿児島城下には、戊辰戦争から凱旋した下級武士が、藩政の改革を求めました。版籍奉還、廃藩置県の少し前のことです。

 このときに、島津家の分家筋や、歴代家老職を務めてきた家=門閥の皆様が解職され、下級武士が推薦した人事で藩政を進めることになりました。ちょうど、このページを見れば、そのリストラのすさまじさがわかります。家老で残ったのは桂久武だけです。
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 参政に選ばれたのはわずか6人。このなかに西郷隆盛がいます。そのわずかに選ばれたメンバーの1人に大迫貞清という人物がいます。この大迫貞清という人物、明治20年代に鹿児島県知事になっています。

 西南戦争後は、再び鹿児島が中央政府に歯向かうことがないよう、鹿児島県出身者が県知事に就くことはありませんでしたが、西南戦争後で初の鹿児島県出身の知事になりました。どのような配慮のもとで、選ばれたのかは今後の研究の課題です。

 数年前、NHKファミリーヒストリーで西田敏行編のお手伝いをする機会がありました。鹿児島市内の上町周辺の西田さんというお宅を回って手がかりを探しておりました。そのうちの、一件の西田さんのお宅で古い写真を見せてもらうことがありました。
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 「亡くなった主人の母の祖父母が大迫貞清という方のようです。この写真は後年に華族に選ばれたときのものだそうです」・・・もうびっくりしました。

 鹿児島県知事・大迫貞清。西郷隆盛と仕事で同僚だった人物。憲法が発布され、国会が開設。その後の衆議院選挙で民党・吏党が激しく争う頃の知事職のようです。その生涯をもっと調べてみたいところですが、既存の資料ではまだまだ足りません。

  

 

by fujisakitakeshi | 2020-08-04 07:00 | 薩摩の歴史のこと