済南事件の目撃者かー藤崎俊満
2022年 02月 05日
私の曽祖父の兄の除籍謄本に、藤崎俊満という人物がいて、ちょうど私の祖父の従兄にあたる方になります。祖父もあったことのないいとこでしょうし、特に私自身が聞いたこともない方です。明治35年生まれなので、祖父より1歳年上のいとこになります。
この俊満の死亡に関する事項を読んでいると、昭和3年、そして済南という地名があり、以前より済南事件の犠牲者か目撃者でないかと思っていましたので、考察してみることにしました。
戸籍に書いている事項は、俊満の死亡に関することが時系列で書いてあります。
「昭和参年拾月拾五日午後五時四拾六分、支那山東省濟南府商準五馬路濟南醫院ニ於テ死亡同居者牧野融届出同日拾六日在濟南日本総領事代理領事西田畊一受付同年拾壱月弐拾六日送付」
死亡した場所が済南医院、同居者が牧野融となっています。牧野融という名前を検索してみると、当日の済南病院の院長であることがわかります。
隼人町松永には藤崎俊満の墓が6~7年前まで残されておりましたが、直系の墓守がいないためか、いつの間にか撤去されておりました。悲しいことです。かつて、俊満の墓があるときに墓石にあった文字を私は書き写しておりました。当時私は大学生でした。
このような記載でした。
「濟南病院長牧野融博士主治医徐昌道博士指揮下
俊満生前ノ人格ヲ賞揚レ其英霊を慰ムル為盛大ナ
ル葬儀営給ヒ福山直紀氏遺族ヲ代表シテ一切ヲ管
掌當會葬者実二三百」
(改行は当時の墓石のママ)
済南病院長牧野融博士、主治医が徐昌道博士。指揮下とはおそらく部下。生前の人格を讃え、英霊を慰めるため、遺族代表で福山直紀氏が主管して盛大な葬儀を行い、会葬者が2~300人参列した。
牧野融、徐昌道ともにアジ歴にも、次世代デジタルライブラリーにも検索で出てきます。牧野は岡山県出身、徐は和歌山県出身のようです。
藤﨑俊満は済南病院の医師、事務職員なのかその職種は不明です。済南医院をアジア歴史資料センターで検索してみますと、済南医院は同仁会済南医院が正式名称で、Wikipediaによると済南事件の被害者の検視や治療がおこなわれたと書いてあります。
日中双方で発端の見解が異なるようです。
このようなYOURUBE動画もあります。
報復をしない日本人を惨殺「済南事件」【CGS ねずさん 日本の歴史 11-8】 - YouTube
藤﨑俊満が医療従事者ならば、当時済南事件の日本人被害者の救済活動に奔走したものと思われます。当時26歳。家族はいましたが、同地で既に離婚していたので、おそらく職員宿舎に一人住まいではなかったかと思います。なので、同居者が上司である牧野融博士になっているものと思われます。
藤﨑俊満がどのような学歴で、どのような経緯で済南に渡ることになあったのか、今となっては知る由もありません。